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似島遺構看板クイズの
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答え ③ 防空壕の中

像は、1938年(昭和13年)、浜本乙松氏が文展無鑑査の森太造に依頼して製作したもので銅像の高さは約3m。第二検疫所(現似島歓迎交流センター)前の小山の麓に、自然石の花こう岩を組み合わせ台座にして建立しました。

陸軍検疫所と馬匹検疫所の間を通る兵士の士気を高めるために建立したとも伝えられています。

後藤新平 1857.7.24~1929.4.13、71歳没
陸奥国胆沢郡鹽竈村(現:岩手県奥州市水沢生まれ)

この銅像は1938年(昭和13年)に似島町の故浜本乙松氏が東京在住の彫刻家の森大造氏に製作を依頼し、城の山(似島歓迎交流センター隣接地)の山麓に立てられました。

太平洋戦争時の「金属類回収令」による難を逃れるため、像を三分割して防空壕内に保管しました。戦後の1958年(昭和33年)に元宇品の宇品天然水族館に移設された後、似島学園第二代園長の吉川豊氏が懇意にしていた浜本晃次・市子(乙松氏の初孫)夫妻の理解を得て1992年(平成4年)4月に縁の似島学園内に帰還しました。
今から130年程前、日本は中国(清国)と戦争をしていました。当時は東京からの鉄道の終点が広島であった為、広島に大本営と帝国議会が置かれ、正に臨時首都となり、宇品港からは多くの兵士等が戦場となった朝鮮半島へ出征していきました。
1895年(明治28年)に日清戦争が終了すると、戦闘地から総計23万人を超える兵士達が故国日本に帰国することになりました。
当時、戦地で大流行していたコレラやチフスなどの病原菌を持ち込むことが、国家存亡の危機とまで心配されていました。そこでドイツに留学して公衆衛生学や感染症などの医学を習得していた後藤新平が主体となり、日本細菌学の父とも評される北里柴三郎の協力を得て、世界でも類を見ない「巨大検疫施設」を建設することとなりました。
似島東北部の海岸を埋め立てた7万6000㎡の広大な土地に検疫業務に関する建物54棟、その他関連する建物139棟を突貫工事によりわずか二カ月弱で完成させました。
現在の高等養護部前の石組み桟橋は「未消毒桟橋」と呼ばれ、戦地から帰還した兵士達はここに上陸し、消毒風呂に入浴して体を洗い、その間に兵士たちの衣類や所持品等は高等養護部が建つ場所に設置されていた最新型の高圧蒸気滅菌装置で病原体を死滅させました。健康であることが確認され、衣服等の滅菌消毒が完了すれば児童養護施設前の「既消毒桟橋」から宇品に渡り各部隊の故郷に帰りました。ドイツで衛生学・感染症学を習得していた後藤新平は自己の理念のとおり、ヒトや物資が直接に接触したり交差することを禁じて検疫を行う方法の一環として利用目的の異なる二本の桟橋を設置しました。
また、同検疫所内には付属の避病院(伝染病院)が設けられ、その中の一つである似島避病院舟入分院は現在の広島市舟入病院として存続しており、今般の新型コロナウイルス患者の入院、治療に大きな役割を担っています。
この検疫事業は海外でも高く評価され、ドイツ帝国の皇帝ウイルヘルム二世から激賞されました。しかし、検疫実施期間中に53名の検疫所職員が感染して死亡しました。その慰霊碑は当時の陸軍次官(臨時陸軍検疫部長)であった児玉源太郎によって建設され、現在市内東区の饒津神社境内に残されています。
わずか3ヶ月の間に、687隻、232,346名の検疫を成し遂げたことから、翌年9月頃には死者が数百人まで激減しました。
検疫所の遺構は残念ながら、運場の谷の貯水槽(高等養護部の奥側)、2本の古い桟橋跡、レンガ造りの焼却炉跡などが残されているのみで、後藤新平の功績を称えて作られた銅像が現在も似島学園内にひっそり佇んでいます。ゆかりの地を見守っています。
膨大な将兵達の検疫を成功させた後藤新平は、検疫部長であった児玉源太郎陸軍次官から大きな称賛を受け、その後には第4代台湾総督に就任した児玉から民政局長への就任を要請されました。
さらに、その後の後藤新平は初代の満州鉄道総裁、逓信・外務・内務の各大臣、鉄道院・帝都復興院・東京放送(現NHK)の各総裁などの要職を全うされました。
晩年には全国を遊説していましたが、車中で突然倒れ、1929年(昭和4年)4月13日京都にて逝去(享年72歳)しました。
ここ似島の地でコレラ等の感染拡大を防いだ後藤新平や先人の偉業を知ることで、様々な困難に負けることなく立ち向かっていく勇気と気概を学びたいものです。

 故後藤新平の言葉
よく聞け!
金を残して死ぬものは下、
仕事を残して死ぬものは中、
人を残して死ぬものは上